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《柠檬(日文版)》[50M]百度网盘|亲测有效|pdf下载
  • 柠檬(日文版)

  • 出版社:华东理工大学出版社
  • 出版时间:2018-05-23
  • 热度:8339
  • 上架时间:2024-06-30 08:52:20
  • 价格:0.0
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内容介绍

编辑推荐
  《柠檬》是作者的处女作。本作品其实是颓废、衰弱和绝望中的作家以纤细的笔触在歌颂一种纯洁的精神,其新鲜的感受性和细腻的表达造成了一种无与伦比的美。本作品借助柠檬所作的无法拥抱现实的苦恼的表白,明显凸现出动荡时代的烙印。在这里,“柠檬”并不是美的表象,而是无法置疑的现实的象征。
目录
版权信息
檸 檬
精彩书摘
  えたいの知しれない不ふ吉きつな塊かたまりが私わたしの心こころを始し終じゅう圧おさえつけていた。焦しょう躁そうと言いおうか、嫌けん悪おと言いおうか――酒さけを飲のんだあとに宿ふつか酔よいがあるように、酒さけを毎まい日にち飲のんでいると宿ふつか酔よいに相そう当とうした時じ期きがやって来くる。それが来きたのだ。これはちょっといけなかった。結けっ果かした肺はい尖せんカタルや神しん経けい衰すい弱じゃくがいけないのではない。また背せを焼やくような借しゃっ金きんなどがいけないのではない。いけないのはその不ふ吉きつな塊かたまりだ。以い前ぜん私わたしを喜よろこばせたどんな美うつくしい音おん楽がくも、どんな美うつくしい詩しの一ひと節ふしも辛しん抱ぼうがならなくなった。蓄ちく音おん器きを聴きかせてもらいにわざわざ出でかけて行いっても、最さい初しょの二に三さん小しょう節せつで不ふ意いに立たち上あがってしまいたくなる。何なにかが私わたしを居堪いたたまらずさせるのだ。それで始し終じゅう私わたしは街まちから街まちを浮ふ浪ろうし続つづけていた。
  何故なぜだかその頃ころ私わたしは見みすぼらしくて美うつくしいものに強つよくひきつけられたのを覚おぼえている。風ふう景けいにしても壊こわれかかった街まちだとか、その街まちにしてもよそよそしい表おもて通どおりよりもどこか親したしみのある、汚きたない洗せん濯たく物ものが干ほしてあったりがらくたが転ころがしてあったりむさくるしい部へ屋やが覗のぞいていたりする裏うら通どおりが好すきであった。雨あめや風かぜが蝕むしばんでやがて土つちに帰かえってしまう、と言いったような趣おもむきのある街まちで、土ど塀べいが崩くずれていたり家いえ並なみが傾かたむきかかっていたり――勢いきおいのいいのは植しょく物ぶつだけで、時ときとするとびっくりさせるような向日葵ひまわりがあったりカンナが咲さいていたりする。
  時ときどき私わたしはそんな路みちを歩あるきながら、ふと、そこが京きょう都とではなくて京きょう都とから何なん百びゃく里りも離はなれた仙せん台だいとか長なが崎さきとか――そのような市しへ今いま自じ分ぶんが来きているのだ――という錯さっ覚かくを起おこそうと努つとめる。私わたしは、できることなら京きょう都とから逃にげ出だして誰だれ一ひと人り知しらないような市しへ行いってしまいたかった。第だい一いちに安あん静せい。がらんとした旅りょ館かんの一いっ室しつ。清しょう浄じょうな蒲ふ団とん。匂においのいい蚊帳かやと糊のりのよくきいた浴衣ゆかた。そこで一いち月がつほど何なにも思おもわず横よこになりたい。希ねがわくはここがいつの間まにかその市しになっているのだったら。――錯さっ覚かくがようやく成せい功こうしはじめると私わたしはそれからそれへ想そう像ぞうの絵具えのぐを塗ぬりつけてゆく。なんのことはない、私わたしの錯さっ覚かくと壊こわれかかった街まちとの二に重じゅう写うつしである。そして私わたしはその中なかに現げん実じつの私わたし自じ身しんを見み失うしなうのを楽たのしんだ。
  私わたしはまたあの花はな火びというやつが好すきになった。花はな火びそのものは第だい二に段だんとして、あの安やすっぽい絵具えのぐで赤あかや紫むらさきや黄きや青あおや、さまざまの縞しま模も様ようを持もった花はな火びの束たば、中なか山やま寺でらの星ほし下くだり、花はな合かっ戦せん、枯かれすすき。それから鼠ねずみ花はな火びというのは一ひとつずつ輪わになっていて箱はこに詰つめてある。そんなものが変へんに私わたしの心こころを唆そそった。
  それからまた、びいどろという色いろ硝子ガラスで鯛たいや花はなを打うち出だしてあるおはじきが好すきになったし、南なん京きん玉だまが好すきになった。またそれを嘗なめてみるのが私わたしにとってなんともいえない享きょう楽らくだったのだ。あのびいどろの味あじほど幽かすかな涼すずしい味あじがあるものか。私わたしは幼おさない時ときよくそれを口くちに入いれては父ふ母ぼに叱しかられたものだが、その幼よう時じのあまい記き憶おくが大おおきくなって落おち魄ぶれた私わたしに蘇よみがえってくる故せいだろうか、まったくあの味あじには幽かすかな爽さわやかななんとなく詩し美びと言いったような味み覚かくが漂ただよって来くる。
  察さっしはつくだろうが私わたしにはまるで金かねがなかった。とは言いえそんなものを見みて少すこしでも心こころの動うごきかけた時ときの私わたし自じ身しんを慰なぐさめるためには贅ぜい沢たくということが必ひつ要ようであった。二に銭せんや三さん銭せんのもの――と言いって贅ぜい沢たくなもの。美うつくしいもの――と言いって無む気き力りょくな私わたしの触しょっ角かくにむしろ媚こびて来くるもの。――そう言いったものが自し然ぜん私わたしを慰なぐさめるのだ。
  生せい活かつがまだ蝕むしばまれていなかった以い前ぜん私わたしの好すきであった所ところは、たとえば丸まる善ぜんであった。赤あかや黄きのオードコロン
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